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(株)浅井ゲルマニウム研究所の創設者であり、アサイゲルマニウムの生みの親である浅井一彦。
戦後の混乱の中、確固たる信念と情熱を持ち、日本の石炭産業や科学の進歩に大きく貢献してきました。
ここでは浅井一彦の生涯をご紹介します。
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明治
41年
3月30日、満州大連で生まれる。10歳まで大連で過ごし、その後東京へ。
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昭和
7年
東京帝国大学(現:東京大学)法学部を卒業した。当時不況のなか、外交官になるために苦労して外交官試験に合格。しかし、官報の合格者名簿に名前の不記載という極めてまれなミスで合格がうやむやになる。
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昭和
9年
春、大倉組に入社。
商事部からドイツ駐在員としてベルリンに派遣される。
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昭和
11年
11月、秘書であったエリカ・フェルターホッフと結婚。ベルリンには日本大使館に大学時代の仲間などもいたが、心満たされず強度の神経衰弱となる。ある日、ドイツ人青年に連れられて、炭鉱内で自然を相手に必死に働く人々の姿を見せられ、衝撃を受ける。それまでの生活を一変させ、石炭研究への道へ進むことを決意する。

≪炭鉱内の浅井一彦≫
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昭和
12年
石炭研究の為、シャロッテンブルグ工科大学(現:ベルリン工科大学)入学。
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昭和
18年
シャロッテンブルグ工科大学卒業。
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昭和
20年
終戦間際に九死に一生を得て帰国。日本の戦後復興のため、財団法人石炭綜合研究所設立。
米国ベル研究所のバーデンらがゲルマニウムの半導体の性質を使ってトランジスターとダイオードを発明。
この発明に後にノーベル賞が与えられ、ゲルマニウムの半導体の性質に世界の注目が集まる。
浅井は、日本の石炭にはゲルマニウムが多いことを知っており、何とかその中から取り出す方法がないか模索する。

≪石炭総合研究所のメンバーと≫
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昭和
27年
石炭乾留ガス液中よりゲルマニウム抽出成功。
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昭和
28年
石炭乾留ガス廃液から二酸化ゲルマニウムの回収に成功。二酸化ゲルマニウムから超高純度の多結晶ゲルマニウム(ゲルマニウム元素の塊)を精製。浅井は、石炭になった元の植物が生息しているうちに何かの目的でゲルマニウムを取り込んだものと考え、植物とゲルマニウムの因縁を明らかにすることを決意。
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昭和
30年
植物中のゲルマニウムの含量を測定。古来より健康に良いと言われている植物にゲルマニウムが多いことを発見した。
それらの植物の有用性にはゲルマニウムが関与していると考え、身体に吸収されやすいゲルマニウム化合物の合成に着手。
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昭和
31年
二酸化ゲルマニウム果糖液を用いた動物実験で、放射線障害に対する効果を確認するも、骨髄、脾臓、腎臓などへ蓄積されてしまうことがわかる。生命体に取り入れるためには安全性の高い有機ゲルマニウム化合物であるべきとの結論に至る。
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昭和
32年
発明及び各種の新技術の開発に貢献したとして、政府より紫綬褒章を授与される。
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昭和
37年
京都大学より工学博士の学位を取得。
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昭和
42年
世界に先駆けて水溶性有機ゲルマニウム化合物の合成に成功。
この時、長年の肉体的疲労、精神的ストレス、全身の多発性リウマチ、痛風などにより病床に臥していたが、初めて化学合成された有機ゲルマニウムの水溶液を、一片の疑いも持たずに自ら服用し、自分自身の身体でその効果と毒性・副作用がないことを確認した。10日後には散歩ができるまでに回復した。
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昭和
43年
浅井ゲルマニウム研究所(個人研究所)設立。日本化学会に発表。
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昭和
50年
1月、ニューヨーク・アカデミー・オブ・サイエンスの正会員に推薦される。
9月、著書「ゲルマニウムと私」が出版される。著書「ゲルマニウムと私」の中でゲルマニウムは体内で酸素を豊富にしてくれるという「酸素代替説」を提唱。
またフランスで開かれた世界自然医療学会に招かれ、有機ゲルマニウムに関する講演を行い、反響を呼ぶ。
株式会社浅井ゲルマニウム研究所設立。

≪著書「ゲルマニウムと私」≫
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昭和
51,52年
西ドイツ(昭和51年)、アメリカ(昭和52年)で開催された自然医療学会でも講演し、注目される。
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昭和
53年
著書2冊目「ゲルマニウム讃歌」を出版。
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昭和
54年
6月、第1回目ゲルマニウム研究会開催。全国の大学、研究機関の研究者とともに、本格的な有機ゲルマニウムの生物活性研究が開始される。
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昭和
56年
著書3冊目「ゲルマニウムとわが人生」を出版。
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昭和
57年
10月、「私のゲルマニウムを人々の健康に役立ててもらいたい」という想いを研究所員に託し、生涯の幕を閉じる。(享年75)